プロフィール

はじめまして

心の鎖を外すカウンセラーの槙野葉月です。

カサンドラ症候群、アダルトチルドレン〔AC〕、愛着障害
でお悩みの方、またその影響による
子育てでお悩みの方に向けて
カウンセリングを提供しています。

どうぞ宜しくお願い致します。

愛情不足な乳児期

私が生まれたのは昭和30年代、
父が産婦人科医院を開業したばかりの時でした。

父母はお見合い結婚で、父は様々な不安から、
結婚後すぐに鬱病になり、
大学病院の精神科に入院しました。

母は大家族の家事を一人でこなし
医院や入院患者さんの仕事もたくさんあって
妊娠中も寝る間もなく
お乳をあげる時間さえなかったと
80歳を過ぎた今、ふりかえって残念がってます。

私自身、大人になってからも続いた
漠然とした不安感は、赤ちゃんの頃の環境が
影響していると感じています。

病的な幼少期
他人にあずけられる

一歳頃、母は忙し過ぎて私の面倒をがみられず
叔母や従妹によると、私はサークルの中で、
いつも泣きじゃくっていたそうです。

同居の祖母は自分本位な人で 
子守りはしない  
と宣言し、私を抱き上げる事
もなく
子育ての手伝いを一切しなかったそうです。

その頃、私の額に三角形のアザのような物が現れ、
舌も異常な色になり、父母は随分心配したようです。

子供ながらストレスが、身体に現れたのだと思います。

二歳頃、近所に住む女性に預けられたのですが
その人はとても厳格な怖い感じの人だったと
従妹がよく言ってました。
毎日大泣きして私はその人の家に
連れて行かれたそうです
幼稚園の通園で、泣いた事は一度もなかったそうなので
二歳の私はとても辛かったのだと思います。

成長してから、自分が人に理由のわからない
恐怖を、時に感じてしまうのは
その頃の経験が影響していると思いました

小学校時代、両親の過干渉が始まる

私が小学校に上がる頃には、
家族の生活も落ち着いてきました。

ただ、その頃から父が異常に私に関心を示し、
過干渉が始まりました。

地方の小さな町の小学校なのに、
お茶の水女子大附属の制服を、三越であつらえ、
私にそれを着せ、学校に通わせました。

小学校時代は、
刈り上げの髪型も父親が決めてました。

ほとんど毎日お稽古事が決まっていて
友達と遊ぶ時間もありませんでした。

一週間、全部お稽古が入っていて、友達とも遊ぶ時間がありませんでした。

両親の強烈な支配と束縛

最も大切な乳児期に、愛情をかけてもらえず
小学校にあがる頃から
両親は過剰に私を支配し、
結婚に至るまでコントロー
ルしてきました。

それが私の幸せの為で、正しい事だと信じてました。

特に、父親の関心と束縛がすごく、
母は父がうるさく面倒なので(母本人の言葉)
私の気持ちを聞くことは一切せず
全て父の言いなりでした。

小学校低学年の記憶として、自傷行為のように
自分で自分をずっとツネっていました。
また、母に対する甘えが足りなかったためか
指しゃぶりのような行為を
中学生になるまで、止められませんでした。

父の育った環境と
弟のこと

父の実の父親は、父が生まれてすぐ亡くなり
母親は助産師で、仕事オンリーの人でした

支配的な母親と、厳格な義父の間で
親の顔色を見ながら
父はビクビクして育
ったようです。

また、助産師見習いの女性ばかりの中で
遊びはおままごとなどで
父親としての対応の仕方が分からなかったのか
二人の弟たちには、進路以外は余り口出しはせず、
関心は全て女の子の私に集中ました
父は私に関わることが生きがいで
思い通りしたかったのだろうと
母は言ってます。

ただ、今考えると、
父も愛情不足の家庭で育ったACのため
負の連鎖が続いていったのだと思います。

他人の顔色が気になり、自分が何が好きで
何をしたいか分らない学生時代

中学時代、人間関係が上手くいかず、
修学旅行で一人孤立し
どうにか、一つのグループに混ぜてもらいました

居場所がなった辛い思い出です。

その修学旅行の帰り、ストレスと寝不足からか
舌が出たままの異常な状態になってしまいました。
先生の付添いでどうにか家に帰りました。

両親はとても驚き、往診してもらいましたが、
すぐには治らず、何日かして落ち着きましたが、
結局、原因はわかりませんでした。

私は、親の言うことを聞いて勉強し、
高校はトップレベルの県立女子校に進学しました。

その頃、父はまた鬱病になり、産婦人科をやめ、
ホームドクターに転向、収入も激減しましたが
教育には一生懸命だったので
大学は父親の希望の
東京の美術大学に進学することになりました。

表面上は明るく振舞っていましたが、
そこでもやはり人と
うまく馴染めずつらい思いをしました。

表向きの顔は明るく快活に見せていたので
私が人付き合いに苦しんでいるとは
周りの誰も感じていませんでした。

でも、私自身は人目が気になり、
常に相手の視線や動向に気を取られていました。

友達が三人以上になると、異様に緊張してました

ただ、自分が何で人と自然に話せないのか?
何故、人の様子を常に意識してしまうのか?

ずっとわからない状態でした。

大学生活、結婚相手はアスペルガー

大学生活にも馴染めず、心許せる友達も居なくて、
過食症になり大学2年の時、
洋服のサイズがどんどん大きくなりました。

その頃は、通学に4時間かかる
自宅と東京のアパートと交互の生活でした。

父親が、私のことを異常に心配するため
東京に泊まる日は、夜9時には親から必ず電話があり
自宅に帰る時は、電車の時間を必ず
報告しなくてはならない状態でした。

男友達とちょっとお茶するだけでも
興信所が調べているかも知れないと
とても怒られました。

お見合いが勝手に決められ、そのお相手と会う時、
父が診察室から飛び出してきて
自分が選んだ派手な和服に着替えるよう
言われた事もありました。
お正月でもないのだから
相手の方は迷惑だろうと思いました。

私は、自分の考えを主張したり、
勝手な行動をすることが
親が怖くて出来ませんでした。

卒業後友人は皆、専門的な仕事につき前向きでしたが、
私は全てに自信がなく、人と比較して落ち込み、
望みもなく、家の事務を手伝う事しか考えられせんでした。

その頃、好きな人も現れましたが
親に猛反対され、怒られ、
監禁のような状態になり
全ての物事をあきらめてしまい、
親の薦める結婚をしてしまいました。。。

今考えると、私は鬱状態だったのだと思います。

結婚式は父がウエディングドレスなど全て決め、
知らない誰かのイベントのようでした。

ずっと後になって、
あんなうれしそうなお父様を見たことがなかったと
招待客の方から言われました。

両親はこの結婚に大満足で、
私は親のあやつり人形のようでした。

結婚相手は、当時は全然分かりませんでしたが、
アスペルガーで、ADHD気質の愛着障害の人でした。

東京にいる時は夜9時には親から必ず電話がありました。卒業時、同級生は自分の実力でどんどん就職しましたが、私は実力も希望もなく何をしたいかも分からず結局、実家に戻り医院の事務を手伝うことになりました。
女子校続きで親もうるさい為男友達は一人もいませんでした。結局、親の言いなりにお見合をし23歳と数日で結婚することになってしまいました結婚相手はアスペルガーでADHD気質の愛情の少ない家庭で育った人でした。

私、父、祖母と同じ愛着障害でアダルトチルドレンだと後に理解しまし

新婚生活と発病子育て

新婚旅行では、彼が初日に熱がでて、
私は希望していたオプショナルツアーに行くな
と言われ、ホテルで一日過ごしました。
最終日に今度私が発熱したら、一人で
一日のオプショナルツアーに出かけてしまいました。

その後の生活も彼の自分勝手な行動に振り回され、
ありとあらゆる理不尽な事がありました。

主人は、結婚後すぐ大学院に進みましたが
教授の大事な預かり物を無くしたり、
色々と騒動がありました。

大学院生になり、収入が無くなり
私の貯金は20万しかなく、夫の貯金は分からず
親からの持参金もなかったので、
奨学金8万の中で、生活するしかありませんでした。

ただ、両親に生活費の援助を頼んだことは
一度もありませんでした。

娘が一歳の頃、母にもう少し良い服を着せなさい
とい言われましたが、言葉だけで
お金はもらえず、出産祝いの品と、
もらい物の洋服しかありませんでした。

長女がまだハイハイしてる頃に、
仕事先から、主人の突然の電話で、
劇症肝炎になった!と知らされ
そのまま3ヶ月入院になりました。
担当医師から仕事復帰は完全に無理と言われました。
医局からは、一万円のお見舞い金だけでお払い箱でした。

父は困惑し、本人はベッドで泣いていました。

その後、どうにか回復し2年後、
もう一人女の子が生まれました。
自分勝手な主人は子育てにも一切
手を貸してくれる事はありませんでした。

子供が夜泣きをすると怒られ
外に連れ出しました。
お風呂も部屋のシャッターを降ろして
一人で入れてました。

主人の母は高齢で遠く、実家の母は忙しく頼めず
子育てを協力してくれる人は、誰一人いませんでした。

友人達はバブル経済の中、華やかでした。
結婚した友人は一人もいず、田舎の一軒家で
私は話す相手もなく、完全なワンオペ状態でした。

主人との孤独な生活

今思い返すと、23歳の私は好きでもない人と結婚し、
10ヶ月で子供が生まれ、
少女から急にお母さんになった感じで、
ただ一人困惑していました。

私は幼い頃から、両親の言う通りにすることが当たり前で、
人に反発したり、怒ったりすること事が
上手く出来ませんでした。

主人は初めの頃は、
ただおとなしい感じの人だったのですが、
反抗したり、怒りを表に表せない私を、
言いなりに、動かすようになってきました。

ずいぶん後になって、主人は相手の気持ちを 理解する
能力が不足している人なのだと理解しました。

主人は、いわゆる勉強の出来るタイプの人で、
優しく見え、外では気配りをするので、

多くの人は (私の家族さえ)
そんな彼のゆがんだ性格を理解する人は、
誰一人いませんでした。

私はとても孤独でした。

知的で、優しく穏やかな先生で羨ましいと
子供の同級生のお母さんから
面と向かって言われたこともありました。

孤独で苦しい生活の中でも、
子ども達だけは、しっかり育てなくては
との思いが強く、夢中で子育て本を読みました。
モデルもなく、教えてくれる人もいないため
子育ては、全て手探り状態でした。

その中で、子ども達に本を読んだり、
知育玩具を手作りして、本当に必死でした。

医院開業とモラハラDV

30代後半、主人の身体は少しずつ回復し、
娘達が小学生の頃には
家を建てどうにか生活も落ちついてきました。

本人は博士号までとったのに、
勤務医の仕事がつまらない
と毎日愚痴ばかり言っていたので
協力し医院を開業する事にしました。

仕事がどうにか落ち着き、
表面的には普通の生活ができるようにりました。

しかし、モラハラがある中、次に性的DVが始まりました。

主人は、友達がほとんどいないので、
私が外に出ることを、とてもいやがりました。

友人からの電話や、学校からのお知らせを受けても、
私に言ってくれないので、いつもとても困りました。

なんで大事な連絡を教えてくれないの? 
と聞くと 主人はいつも

知るか! の一言でした。

外つらがよく丁寧なので、いつも私が悪者扱いでした

旅行では私が荷物を持ち、
団体旅行で勝手な行動をとり迷子になるので、
旅行はとても苦痛でした。

ある時、荷物を頼んでトイレに行ったらバックを盗まれ
なんで、ちゃんと見ててくれないの?
と言ったら、逆切れされ、家に帰る数時間
怒り続け、恐ろしかった思い出があります。
常に怒りで私をコントロールしようとしました。

成田空港では、
トランクがあるからエレベーターにと言っても聞かず、
エスカレーターにさっさと乗り
私は追いかけて、
上からトランクごと落ちました。

知らない男の人が下で止めてくれ、
どうにか大怪我は免れました。
本人はどこ吹くかぜで、平気な様子でした。

その頃、望まない妊娠をして出血が止まらず
何軒病院を受診しても、診断がつきませんでした。
最終的に手術をして、子宮外妊娠と分かりました。
入院生活が余りに気楽でビックリしました。

医院の仕事

30代は医院の仕事が忙しく
10年以上友人に会う事もありませんでした。

主人は人との応対が苦手な為
開業と同時に、人事など全て任され、
医院の受付事務をしながら
専従者として、従業員さんの面談や相談事
新規採用、外部との交渉、経理、雑務、
全て行いました。
税理士さんから、経営能力があると
褒められた事が唯一の救いでした。

開業医の妻は人にもよりますが、
24時間勤務の感じで
食事も三食作るので大変でした。

子供たちエスカレートするDV

子供たちも、父親の性格をわかっていて、
親しい関係ではありませんでした。
ただ、主人はは娘に対して関心が薄く、
過干渉ではなかったので、
表向きには普通に暮らしていました。
また、DVに関しては、彼女たちに悟られないように
私が細心の注意をはらいました。

学校に関する事も一人で頑張りました。
精神的に父親不在状態で、
主人は相談出来る相手ではないため
年齢ごとに様々な事があり、一人で悩みました。

友達関係の悩み、学校からの呼び出し勉強や塾の問題
部屋に引きこもりずっとね寝ている 等々
ただその中でも
出来るだけ子供の気持ちに寄り添う努力をして
二人とも大きな問題を起こさずどうにか成人しました。

娘が大学に通うようになり、
二人だけの生活になって主人のモラハラ、
DVは益々ひどくなっていきました。

お昼にファミレスに行く時はきまって
週刊誌を買い、席は窓際、
買い物も席取りも全て私の仕事で
本人は車の中で待っていました。
少し遅れるだけで不機嫌をあらわにしました。

久しぶりの同窓会が、教授の祝賀会と重なり
喜んで出席の予定でいたら
前日に行かないと!ぐずりだす始末。

悩みを人に話すこともできず
自分一人で苦しみを抱えていました。

いつも主人を怒らせてはいけない!と思い

顔色を伺い、ビクビクしながら我慢の生活が続きました。

私は親との関係もあり、従順なことを
美徳のように思わされていて
怒りを人にぶつけることが上手く出来ず
また、怒りは良くない事と考えていた為
不自然な関係が、ずっと続いてしまいました。

初めてのカウンセリング

そんな中、大学の友人が癌になり、カウンセリングを
受けている話を聞き、私も初めて臨床心理士さんの
カウンセリングを受ける事にしました。

その時、癒された感覚は今でも覚えていますが、
決定的な解決にはなりませんでした。

ある時、匿名のDV相談に電話したら
シェルターにすぐ逃げるよう言われましたが、
行動は出来ませんでした。

私は、自分の心を癒すため、
また、解決策を知りたいとの思いから
心理学、脳科学、スピチュアルなど様々な本を読みました。

突然の家出と病気

ある日、DVの余りの酷さとモラハラに
心臓がバクバクし
身体も硬直してしまうような出来事かありました。

あなたの性格はわかっているけれど
人間なら行動は変えられるでしょう?
と聞いたところ

変えない!!と言われ
これはもうダメだ!

と思いバックひとつで家を飛び出ました。

主人は私がそのような行動に出るとは、
夢にも思ってもいなかったので
相当な驚きと衝撃だったようです。

その頃の私は、ストレスから不整脈になり、
時々めまいを起こし
緑内障で視力低下になり、高血圧も患ってました。

私はストレスを発散出来ず、内側にため込み
身体に症状が現れたのだと思います。

現在も視力がもどらず、生活に支障があります。

家を出た後、恐喝めいたことを言ってきたので、
怖くなり、弁護士さんをお願いしました。

弁護士さんを通して、渡された初めての手紙には
従順なあなたがどうして⁈ 
誰かに騙されているのでしょう。

と書いてありました。

調書を読んだ双方の弁護士さんは
裁判をすれば
100対0でご主人が負けるとおっしゃいました。

親のコントロールに慣れ過ぎていて
30年もの間、苦しい状態を続けてしまいました。

興味のある分野を学ぶ中また事件

家を出てから、興味のあった心理学や人間分析など、
色々学び、資格もとりました。

私がやっと落ち着いてきた頃、また事件が起きました。
次女が10ヶ月の産休中に
胎児の脳に異常があると診断され、
余りの恐ろしさに
彼女はパニックになりました。

どうにか出産はしましたが、
異常行動が続きそのまま
大学病院の精神科に、入院することになりました。

その後、また色々と問題を起こし、
入退院を繰り返しましたが
現在は、みんなの見守りの中、
私が話を聞き、カウンセリングをしたりして
彼女も普通に暮らせるようになりました。

学んだ事を活かす

カウンセリングによって、今までの生き方や生活が
他人中心の自由のない、自己犠牲の生き方
だったことに、気づかされました

そんな中で、ただ一つ誇れることは
祖母、父親からの負の連鎖を断ち切れたことです

子育て中は悩みながら、色々と大変でしたが
娘たちは、学校も結婚も自分の気持ちを大切にして
現在も自分らしく生活してます。

自分や娘に起こった問題で、
様々なカウンセリング、セラピー、
占いも経験しました。

傾聴や大学病院でカウンセリングを受ける中で、
単独のやり方でのカウンセリングでは
改善は難しいと感じました。

また、精神科は、お薬で治すのが基本で、
良くなってもお薬を手放すことが怖くなります。

カウンセリングの効果と個性分析

アメリカなどでは、カウンセリングを受ける事は
生活を支える一部になっているようです。
今回、自分が学んだカウンセリングと
カウンセラーさんによって私は救われました。

また個性分析を学んだ事で
夫や子供への理解が深まりました。

人の生き方や考え方は
生まれもった個性と、育ち、環境によって
決まってきます。

なっています。

心療内科の医師も

うつなどを解消するにカウンセリングすると回復が早いとおっしゃってます。今まで独学で学んだ事が、全て網羅される方法が
ある事を知り、自分のようなアダルトチルドレンで、
愛着障害があっても、またいくつになっても
立ち直れるとが分かりました。
父親も、このカウンセリングを知っていれば
もっと楽に生きられたのにと、残念な思いです。

娘にカウンセリングしたら、大学の先生の
カウンセリングより、千倍いいと言ってくれました。

私自身は、自己犠牲でなく、
自分らしく自由に生きれること
自分を大切にし自信を持つこと
自分と他人の個性を理解し、楽になるコツを

50歳をすぎてから
カウンセリングと個性分析から学びました。

その後、主人との関係

主人とは現在、弁護士さん同席で会う機会があります。

10年近い年月が経ち、
主人もずいぶん態度が変わりました。

色々ありましたが、
主人はいわゆる悪い人ではないと思います。

彼は戻って一緒に暮らしたいと思っているようですが

娘たちも自分の望んだ結婚し、落ち着いているので

私は生まれて初めて与えられた自分らしいこの状態を

このまま続けるつもりです。

パートナーとの関係と自分

パートナーとの関係が、苦痛で離婚したい、
別居したい、でも経済的な問題や子供も居るので
この結婚生活を維持しなければならないのか?
色々な考えが、うかぶと思います。

ただ、どんな選択をしても、
ご自身が変わらなければ
同じ心の状態が続きます。

先ずはご自身の心の鎖を外しましょう
そうすれば、最善の道が自然に見えてきます。

また同じことを繰り返すことに

なるでしょう。まずはご自分の心の鎖をそうすれば今よりずっとそうすれば楽になります。そうすれば、どの道が自分にとってそうすれば、最善の道か自然と分かってきます。

カウンセラーとしての思い

私は、人間関係や自分の生き方に
長い間苦しんでしまいました。

人生の後半にきて、
本格的に個性分析、心理療法、
カウンセリングスキルを学びました。

個性による行動や考え方の違い
お互いの力関係、人間の心理
また、カウンセリングスキルとして

安心と自信の土台を作るワーク
他人との適切な距離を保つイメージセラピー
トラウマ克服メソッドなど

皆様に提供できるようになりました。

苦しい経験して、立ち直った私のところに、
お話しに来てください。
子育てでお悩みの方も是非ご相談ください

必ず、明るく楽な気持ちになれる
未来があなたに訪れます。

当カウンセリングではセラピーと
様々なスキルとワークを
ご一緒にやっていくことで、ご自身が解放され
心の鎖が外れていきます。
心に染みついた苦しみや悲しみも、薄れていきます。

そして、ご自身を愛せるようになり、
必ず素晴らしい未来が現れます

私は貴方の心の伴走者です。
貴方の心に寄り添う気持ちで、お待ちしております。

長文お読みいただきありがとうございました。